馬場元子監修

明るく楽しく激しいプロレス

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ジャイアント馬場が1989年に掲げた全日本プロレスのモットー。両者リングアウトや反則決着など消化不良の試合を撤廃し、リング内での完全決着を徹底させることで、ファンとの信頼関係を築いていった。

足のサイズ

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「32センチ」と馬場が『徹子の部屋』(1998年11月30日放送)でコメント。「子供の時に10文半(約25.5センチ)という運動靴があったんですが、それが入らなくなって、それ以来、運動靴というものを履いたことはありませんから」とも。

回転エビ固め

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長身の馬場にとってはまさに奇襲。1974年11月5日、東京・大田区体育館大会、ディック・マードック相手のPWFヘビー戦その3本目に日本初披露。見事に3カウントを奪い、同王座20回目の防衛に成功した。

首固め

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84年7月31日の蔵前大会でS・ハンセンから3カウントを奪った技として知られるが、91年12月2日、仙台大会では『世界最強タッグ』の公式戦で川田利明から3カウント奪取。まさに〝ジャイアント〟なスモール・パッケージ・ホールドとなった。

高校野球

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高校2年の春に三条実業高校野球部に入った馬場。1954年7月18日、中越地区1回戦で長岡高校に0対1で敗退(長岡悠久山球場)。先発した馬場の力投は報われず、2年の秋に高校を中退した馬場にとってはこれが「最初で最後の夏」となった。

最低身長

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1990年11月25日、神奈川・横浜大会で馬場(209㎝)はアンドレ・ザ・ジャイアント(223㎝)とのコンビで、スカイウォーカー・ナイトロン(215㎝)&ブレード・ブッチ・マスターズ(213㎝)と対戦。馬場が最低身長という異色の試合になった。

32文ロケット砲

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1965年2月から3月にかけてのロサンゼルス遠征中に習得。コツは馬場が弟分として可愛がっていたペドロ・モラレスから伝授された。帰国後の3月26日、リキ・スポーツパレスでのバトルロイヤルで、ドン・ダフィ相手に初公開。

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36秒

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1963年5月6日の札幌大会、対ゴリラ・モンスーン。試合前の握手時にモンスーンが「ユー、すごく酒臭いぞ」。前夜、馬場は力道山に命じられ「ジョニ黒」を1本一気にラッパ飲みしていた。ひるんだ馬場は36秒で1本目を失った。36秒は最短記録。

16文キック

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1962年の夏頃、アメリカ武者修行中に開発。プロ野球・巨人軍時代に連日、ピッチングをしていた名ごりで左足が無意識に出たが、のちには右足での16文キックも披露している。命名はスポーツ紙。「16」は馬場がアメリカで購入した靴に貼ってあったラベルが起源。

16文チョップ

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馬場が84年7月31日のスタン・ハンセン戦に向けて開発した新兵器。「ハンセンの首に足を叩きつける」「自宅地下室で秘密猛トレ」と同年6月22日付けの東京スポーツは「独占スクープ」で報じたが、16文チョップを見た者は、誰ひとりいない。

好きな女性のタイプ

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「きれいな人がいいですね(笑)。髪の毛がきれいな人は、清潔に見えますからね。清潔な人がいいと思います」(1989年11月、立命館大学での講演会にて)

大洋ホエールズ

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1959年11月、読売巨人軍から戦力外通告を受けた馬場。翌60年2月、大洋ホエールズ(現DeNA)の春季キャンプにテスト生として参加。だが、風呂場で転倒し左ヒジを負傷。左手の中指と薬指が伸びなくなり、野球を続けることを断念した。

卓球

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三条第一中学時代、中越地区大会の個人戦で優勝したほどの腕前。野球のオフシーズン、バスケットボールとともに励んだ。プロレスラーとなった後も、巡業先の温泉宿で同僚レスラー相手にラケットを握ったが、負け知らずだった。

読書

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馬場いわく「巨人軍入団後、夜は時間があるので読み漁るようになった」。好きなジャンルは時代小説。中でも戦国武将もの、剣豪ものがお気に入りで、山岡荘八『徳川家康』、吉川英治『宮本武蔵』を愛読。また、柴田錬三郎の著作は読破した。

ドクターストップ

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1965年10月29日、静岡・駿府大会で、アルバート・トーレスのフライング・ヘッドシザーズにより左側頭部からマットに突っ込み、一時的に全身が麻痺。病院に運ばれ2日間のドクターストップを告げられたが、翌日以降も試合に出続けた。

バスケットボール

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三条第一中学時代、冬場に励んだスポーツ。校内一の長身を生かし、センターとして得点を量産。三条実業高校入学早々にはクラス対抗戦にかり出され、2、3年生を破って優勝を遂げる原動力になった。片手でボールを楽々つかめたという。

葉巻

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葉巻の味を覚えたのは初渡米武者修行中のニューヨーク時代。アントニオ・ロッカがくれたものを師匠のフレッド・アトキンスに隠れて吸っていた。日本プロレスのエースになってからは「ダビドフ」、75年末あたりからは「REAS」が好みの銘柄となった。

阪神淡路大震災

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1995年1月17日に発生した地震により、馬場夫人・元子さんの実家(明石市)も半壊したが、馬場は被害を受けた兵庫県内のファンクラブ会員の家を自ら訪ね歩き、救援物資を配って回った。当時はこの事実が公になることはなかった。

ひょうの降るごとく

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力道山から教わった攻めの極意。「ひょうがポツン、ポツンと当たってきて、そのうちバタバタッときて、一気にババババとくるでしょう。あれとおんなじで敵をしとめなさいと」(馬場談)

ヒンズー・スクワット

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『徹子の部屋』で黒柳徹子さんに伝授した両足の屈伸運動。馬場は若手の頃、力道山にしごかれ、一日3000回をやり遂げるまでに。番組出演後、黒柳さんも健康法としてスクワットを日課とするようになった。

マジソン・スクエア・ガーデン

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1964年2月17日、ニューヨーク「MSG」のメインイベントにジャイアント馬場が初登場。2万2000人の大観衆の前でWWWF王者のブルーノ・サンマルチノに挑戦。王座奪取はならなかったが、長年の夢を叶えた一日となった。

みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます

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1989年1月に全日本プロレスが製作したポスターのキャッチコピー。当時は格闘技色が濃いUWFが人気を博し、また新日本プロレスはソ連から柔道金メダリストやアマレス軍団を招へいしていた。

D

DDT

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1991年6月1日、日本武道館。馬場は前年11月30日に左大腿骨亀裂骨折の重傷を負い、この日が復帰戦。6人タッグマッチに登場すると、自身初公開のDDTでジャイアント・キマラ2号をフォール。以後、90年代の馬場は決め技にDDTを多用した。

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NWA王座

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世界最高峰と称されたNWA世界ヘビー級王座。馬場は通算3度、奪取に成功(74年12月2日にジャック・ブリスコ、79年10月31日と80年9月4日にハーリー・レイスをそれぞれ撃破)。日本で開催されたNWA戦の通算戦績は7勝3敗5分け。