馬場元子監修

16文のプロレス観

 (90年4月13日、WWFとの合同興行となった東京ドーム大会を前に)オレはWWFの選手と全日本の選手を比べて下さいという気持ちがあるんだ。あるいはWWFのレスラーと、うちに来ている外人レスラーを比べてちょうだいというのかな。全日本のリングに上がっている外人が、いかにそろっているというか、素晴らしいのがわかるはずだよ。
 WWFが日本に乗り込んでくるというのに、なぜ我々がいっしょになって興行する気になったかというと、一番の原因はそこなんだ。日本のファンの前でWWFとウチの選手を、比べてもらいたい。
 要するにただ「面白かった。楽しかった」といって終わってしまえばそれはそれでいいけど、比べて見てもらえたらもっといいなあというのが、オレの今の気持ちだな。ウチのレスラーに対してオレは、それだけの自信を持っているんだ。信頼をよせているというかな…。

『週刊プロレス』1990年4月17日号より
リングで出会った男たち
アントニオ猪木ep.03

 (参院選に立候補したアントニオ猪木について「当選を望むか?」との問いに)そりゃそうだよ。マット界に生きている人間なら、みんなそう思ってるだろうな。当選してもらった方が、すべて丸く収まってくれるので、そうなってほしい所だな。

『週刊プロレス』1989年7月11日号より
リングで出会った男たち
マシオ駒

 この日(1976年3月10日)、マシオ駒が死亡した。日本プロレス時代に私の付人第1号となり、全日本プロレスの設立にも真っ先に参加してくれた駒は、体は小粒だったが、気っぷのいいファイトをする選手だった。性格は真面目で几帳面で、私は若手の指導者として絶対の信頼を置いていただけに、まだ35歳の若さで内蔵疾患に倒れたことは痛ましく、残念だった。駒がドリー・ファンク・シニアに目をかけられてアマリロに定着していたことが、ファンク一家との交流のきっかけともなった。旗揚げ当初の駒の有形・無形の功績ははかり知れないものがあったと、今でも感謝している。

『王道十六文』より
リングで出会った男たち
バディ・ロジャース

 私がバディ・ロジャースの試合を初めて見たのは、グレート東郷さんに連れられてロサンゼルスからニューヨーク地区に転戦した時だ。ピッツバーグでのクラッシャー・リソワスキーとの対戦だったが、ディック・ザ・ブルーザーと極道コンビで暴れていた大悪党のクラッシャーがロジャースと対戦するとベビーフェースになってしまうのだから、すごいショックを受けた。

 後年デストロイヤーが真似したレスラー・ウォーク、あれは当時“ロジャーズ・ウォーク”と呼ばれて彼のトレードマークになっていた。彼がリングでこれをやるたびにファンはドッとわく。そのツラ憎さに声の限りの罵声を浴びせるのだ。それを平然と受け流すロジャースにはトップスターの自信とムードがあふれ、私はうなりっ放しだった。

 私がロジャースとシングルで初めて対決したのはシカゴの大会場アンフィ・シアターだった。私のNWA世界選手権への初挑戦。アガるというのはああいうことなのだろうか。野球選手時代にもプロレスラーになってからもアガったという記憶のあまりない私だが、この時はただボーッとして何をしたのかどんな試合展開だったのか、終わってからもさっぱりわからなかった。

 当時の私は東郷さんとフレッド・アトキンスの命令で口ひげを生やし、田吾作タイツに下駄をはいて大悪党をもって任じていたのだが、その私がピッツバーグで見たクラッシャーのようにベビーフェースにさせられたことだけははっきり覚えている。私がどんなに悪どいことをやっても、ロジャースはそれを上回る悪どさで私を痛めつけて来たのだ。彼は私などとはケタの違う大ヒールだった。

『個性豊かなリングガイたち』より
闘いの記憶
1971年3月2日、インタータッグ戦について

 昭和46年は、実にいろいろなことがあった年だ。2月にミル・マスカラス、スパイロス・アリオンが初来日し、3月2日、蔵前国技館でインタータッグ王座に挑戦して来た。マスカラスは、この初来日で人気爆発したが、正直言って私は、この手のタイプが好きではない。

 力道山から教わり、アメリカで覚えたプロレス理念とは、全く別のところにマスカラスはいた。キンキラキンに着飾り、キザなポーズでファイトされたんじゃ、例えは悪いかもしれないが、振り袖を着た女性に喧嘩を売られたようなものだ。こっちの方がてれてしまう。

 国技館での防衛戦でも、マスカラスのドロップキックを手ではたき落とし、蹴っ飛ばしたのが記憶にあるぐらいで、「寛チャン、こいつは頼むよ、俺はアリオンを引き受ける」と猪木に任せてしまった。

 そのマスカラスを、全日本プロレスを旗揚げしてからは常連として呼ぶようになったのは、プロモーターとしての私がその人気を認めざるを得なかったからだ。レスラーとしての私は、やはり対戦するのはご免だった。

『王道十六文』より
闘いの記憶
1966年2月28日、ルー・テーズ戦について

 2本目は見事にバックドロップを食ってしまった。ヘッドロックからの首投げ連発戦法でストレート勝ちを狙ったのだが「カッコいいとこも見せてやれ」と当時得意技としていた椰子の実割りをかけようとした瞬間、私の体は宙に弧を描いていた。

 私はこの時の写真を、今でも大事に持っている。テーズのバックドロップも完璧だったが、アゴを引き、両手を大きく広げ、足がパッと上がった私の受身の体勢も見事だったと思う。

 やられた瞬間の写真を自慢するのはおかしいかもしれないが、今年(昭和62年)4月にNHKで青春時代の話をさせられた時も、この写真を持って行って自慢して来た。

『王道十六文』より
16文のプロレス観

 プロレスの技というのにも、ポイントがあるんです。基本としては立ち技、寝技があります。でも、寝技というのは、下手をすると、おもしろくもなんともなくなってしまうんですよ。

 どういうことかというと、例えば日本武道館で試合をやります。あそこは大きい会場ですから、リングの上の隅で寝技をやっても、動きの小さい技だとお客さんから見えないから、何をやっているのか分からないんですよ。だから、リングの一方で技を出しても、反対側にいる人にも分かるようにしなければいけない。それが一番のポイントなんです。

 おれたちはちゃんとやっているんだから、何をやっているか分からなくてもそれでいいんだ、というのはだめなんですね。野球の場合だと、ボールを投げて、打って、そのボールがどこに行ったというのが、どこで見てる人にも分かります。

 それがプロレスの寝技は、反対側なんかにいると分からないわけです。そうすると、お客さんに喜んでもらうプロレス、ということから離れていってしまうんですね。そういうことも考えて、プロレスをしなくてはならないんですよ。

『16文の熱闘人生』より
馬場正平として

オレみたいにずぼらなレスラーはいないと思うよ。ある選手のように“こまめ”にスポンサー作りに励むことができないんだよ。社長だったら、本当は自分の方から頭を下げてそういうことをしなければいけないんだけど、性格なんだろうね。

『週刊プロレス』1990年10月30日号より
闘いの記憶
1963年2月22日対ザ・デストロイヤー戦について

 2月22日、オリンピック・オーデトリアムも超満員だった。1本目を私が取り、2本目は両者リングアウト。試合終了でルールによりデストロイヤーの防衛だとするレフェリーと東郷がモメて延長再試合となり、何かドサクサのうちに私は負けていた。だが別に口惜しくはナカッタ。

 〝謀略の伏魔殿〟と言われていたWWAが、帰国の途中に立ち寄った私に、どんなことをしてでもベルトを渡すはずが無い。ただ大勢のファンがレフェリーを非難し「ババ、良くやった」と言ってくれただけで満足だった。

『王道十六文』より
馬場正平として
新日本プロレスからの「口撃」に対して沈黙を守っていた頃を振り返って

 沈黙をしてもね、あの当時だって「なんで馬場さん、あんたも反論しないの?」という人もいっぱいいたし「馬場さん、いいからほっときなさい」という人もやっぱり、半分半分でしたよ。

 言っても半分半分、言わなくたっても半分半分。だから、言えば相手と同じレベルになっちゃうので、言わんほうがいいといったらへんだけど…。

『週刊プロレス』1996年5月14日号より
野球メモリー
プロ野球との決別

 練習休みの日(1960年2月12日)、私は宿舎の旅館でノンビリと朝風呂に入っていた。女中さんが「食事にしますか、風呂にしますか」と聞くから、「練習のない日くらい、朝風呂にでも入るか」とあまりやりつけないことをしたのだが、これが運命の岐れ路だった。

 空きっ腹でたっぷりと湯につかったため、湯舟から上がったとたんにクラクラッとめまいがし、湯舟にぶつかってタイルの上にひっくり返ってしまったのだ。左ひじが切れて、タイルがアッという間に朱に染まった。

 救急車に運ばれ、何か体がだるくなって目をつぶりかけると、救急隊員に「眠っちゃダメだ!」とほほをたたかれた。湯上がりだから、かなり出血多量だったらしい。病院で傷口を縫い合わせ、1週間の入院で傷はふさがったが、左ひじの筋が切れ、左手の中指と薬指が掌についたまま伸びなくなっていた。

 回復の見通しははっきりしないという。これではグローブがはめられない。球団所属の選手ならともかく、テスト生では、もうプロ野球選手生活をあきらめざるを得なかった。

『王道十六文』より
リングで出会った男たち
ハーリー・レイス

ハーリー・レイスには、任侠の世界に生きる親分といったムードがある。「新日本プロレスからも誘われたが、俺は馬場の顔をつぶすようなことはしねえ。俺は義理と人情では動くが、金じゃ動かねえぜ」と浪花節的なことを言ってくれたものだ。

『個性豊かなリングガイたち』より
16文のプロレス観
シニアヘビー級王座開設の可能性について

50歳、60歳の選手が相手だと思って練習していると30、40歳の選手とは闘えなくなってしまうんですよね。だから、ないんじゃないかなあ。

1988年11月3日=当時50歳、トークショーの質問コーナーにて
野球メモリー
巨人軍時代の春季キャンプについて

 妻の元子知り合ったのは、この昭和三十年の最初の明石のキャンプなんです。元子の父の伊藤悌(やすし)は地元の巨人軍のよき理解者で、なにかと巨人軍の世話をされていた人なんですね。

 選手はキャンプ中には伊藤邸を訪れ、ごちそうになったりしたものです。僕も先輩に連れられてごちそうになりに行ったところ、玄関に大きなスリッパがありました。

 当時、中学三年生、十五歳の元子が用意してくれたそうで、その特大スリッパをキャンプが終わってから多摩川の二軍の合宿所に持って帰り、その後までずっと履きました。このスリッパのお礼の手紙を書いて、返事が来て、それで文通が始まったんです。

『16文の熱闘人生』より
闘いの記憶
1982年2月4日、対スタン・ハンセン戦について

 東京体育館大会は、ちょうど1週間前の1月28日に同館で、新日本プロレスが猪木ーブッチャーのシングル初対決を行うという興行戦争だった。何としても負けるわけにはいかない。燃える材料はそろっていた。

 この戦争は、試合内容も観客動員も、全日本プロレスが勝った。私とハンセンのシングル対決は、両者反則で私がPWF王座を防衛し、(昭和)57年度のベストバウトに選ばれた。マスコミは“奇跡の甦り”〝などと書いてくれた。まるで、それまで私が死んでいたみたいだが、これも私の44歳という年齢のためも多分にあったと、認めなくてはなるまい。

 日本プロレスのインター王者時代は、毎日リングに上がるのが楽しく、いつも燃えていた。だが40代に入り、腰を痛めてからは、毎日燃えっ放しというわけにはいかなくなって来た。ビッグマッチにポイントを合わせ、「よし、この試合に向けてーー」と調子を乗せていくようになったのだ。

 ハンセン戦はそれがピタリと合って、最高の気力と体調で燃えられたということだ。試合前から凄い充実感があって、親しい人に、「俺はこの試合で、今年のベストバウトを取ってみせるよ」と大言を吐いたほどだった。

『王道十六文』より
リングで出会った男たち
アントニオ猪木ep.02

 BIコンビ時代はこれ(昭和43年2月)から46年12月まで、3年10カ月にわたって続くことになる。パートナーの猪木はその間、常に私に張り合って来たが、「やりにくい相棒だな」と思ったことは一度もなかった。コンビを組んで張り合って来たのは、猪木だけではない。

 大木金太郎もかなり強烈だった。だが私は誰と組んでも、やりにくいとは思わなかった。自慢話めくが、当時の私にはそれだけの力があった。相棒がセリ込んで来れば、その上をやった。猪木が10出せば、「よし、俺は12だ!」とやった。

 30歳になったばかりで、プロレスが面白くて、毎日の試合が楽しくてたまらなかったころだ。こういう張り合いも嫌いじゃなかったし、自信があった。パートナー同士が競い合ったから、なおさら、「BIコンビは強い」という印象をファンに与えたのだろう。

『王道十六文』より
16文のプロレス観

 プロレスの歴史は、いかにお客さんをだますかだったと思います。切符が売れさえすればそれでいいと、出場選手の質を落としてギャラを節約し、逆に売れなくなるといい選手を呼ぶ、というやり方だったんです。

 それを全日本プロレスはファンを決して裏切らない、質の高いものをやる、ということでやってきました。今二十年経ってやっと信用がついてきたんです。この信用を一度でも崩したら終わりです。この信用を守っていくこと、そのためには一生懸命に、そしてまじめにやっていくしかありません。もちろん全日本プロレスのモットーである「明るく楽しく激しく」は、永久に続けていきたいと思っています。

 好きな絵も今は描けませんが、描きたいなあと思います。パリのモンマルトルでキャンバスを広げるわけにはいかないし、日本でもちょっと無理でしょうから、どこか外国の河原でキャンバスをひろげたいなあ、と考えたりしています。

『16文の熱闘人生』より
リングで出会った男たち
ブルーザー・ブロディep.02

 金沢の卯辰山相撲場でのことだ。あの会場はすり鉢状で、急勾配な階段状の客席がリングを組む土俵の位置から、ビルの3~4階の高さまで続いている。その客席の中段あたりから、中学生ぐらいの子供が何か野次りながらブロディに物を投げつけた。怒ったブロディはリングから飛び降り、危険を感じたその子供は客席最上段に向けて必死に逃げ出した。
 私はリング上で「あれだけ離れていちゃ、つかまりっこない。おどしをかけただけだろう」と見ていたのだが、ブロディは急階段を一気に駆け登り、その子供をつかまえてしまった。
 100mを11秒台で走る男でなければとうてい出来ない芸当だった。ブロディはつかまえた子供を別に殴りもせず、両肩をおさえてじっとにらみつけただけだったが、あの子はその夜、うなされて熱を出したかもしれない。

『個性豊かなリングガイたち』より
16文のプロレス観
リップ・ロジャース戦の実現要望に対して

 今まで だったら、なんで俺がやらなきゃいけないの、って思ったけど(笑)、最近は我ながら人の言うことを聞くようになりましたんで。皆さんが見たいというならやってもいいですよ。拒む理由もないしね。

1989年11月5日、早稲田祭にて
リングで出会った男たち
リップ・ロジャース

 会場でアンケートを取ると、もう一度呼んでもらいたいレスラーとしてロジャースの希望が多いんだよね。どこがいいのか、オレにはよくわからないんだけど(笑)。
 これまで自分が評価しないレスラーは呼ばなかった。それがオレの悪いクセだったと思う。今後はみんなの意見を参考にして、そのうちまた呼んでみたいな。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
16文のプロレス観

 引退ねえ。そりゃ俺も引退については、自分なりに考えているよ。先日も松山千春さんからここ(病室)に電話が入って「馬場さん、もうだめか!」と言われると「なにくそ」と思ってしまうもんな。逆に気力と闘志が湧いてきた。だから、現時点では引退については、何も考えてない。早く足を治してリハビリをすること、それしか頭の中にはないよ。

 人生は七転び八起きじゃなくて、8回転んだら、9回起きないと。負けたらだめなんだよ。このまま、だめでした、引退しますと言ったら、こんなブザマなことはないからね。そうしたくないと思って、今、頑張っているんだよ。

『週刊プロレス』1991年1月15日号より
リングで出会った男たち
ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー

 現在(昭和62年)ブルーザーはインディアナポリスの、クラッシャーはミルウォーキーのプロモーターをしながら、まだ現役としても頑張っている。(昭和)60年に鶴田、天龍とともにシカゴに遠征した時には、ブルーザーも来ていて、「おう、キッド! 元気か?」と声をかけて来た。

 クラッシャーのほうはちょっと気難し屋で会っても「やあ」だけだが、陽気でつき合いやすい感じのブルーザーはいつも「おう、キッド!」だ。今でも私を子供扱いしているのだが、私は英語がそれほど達者でないから反論するわけにはいかないし、キッドと呼ばれてもちょっと反発できないムードがあるので、言われっ放しになっている。私がキッドなら鶴田や天龍、あるいはターザン後藤や川田利明はいったい何なのだろう。

『個性豊かなリングガイたち』より
16文のプロレス観

第1試合というものは非常に大事なんです。北原(辰己)と菊地(毅)が試合をやったら、お客さんが居眠りしてしまうかもしれない。だから、そこで百田(光雄)がきちんと役割をこなしてくれることは、大事なことなんですよ。

1988年11月3日、トークショーより
闘いの記憶

子供の時にね、60歳っていったらね、ずいぶん年寄りだなと思ってましたけどね、自分がなってみたらね、なんだまだやれるじゃないかと。

1998年1月23日、還暦記念試合終了後のコメントより
16文のプロレス観
他団体との合同興行について

 流れ次第だろう。そういう機運が盛り上がってきたら、もう、無視することはできない。無視したらその人間が時代に取り残されてしまう。オレは全日本プロレスを、そのようにさせてはならないと思っている。だが次の点を間違わないでほしい。

 団体の基本は、あくまで年間スケジュールにある。各シリーズを成功させることが企業運営の第一条件である。合同興行はいってみれば付録のようなもの。合同興行を第一目標にしたら、その団体はすぐにつぶれるよ。

 オレは社長だからみんな(社員)のことを考えないといけないんだ。まず、社員とレスラーのこと。だから、合同興行は余裕のある形でやりたいね。プロ野球のオールスターをみれば、わかりやすいと思う。あれはお祭りだろう。合同興行も祭りにしないとだめだな。合同興行が終わった次のシリーズだ客入りが悪かったら、なんにもならない。ガタッとくる可能性が多いんだよ。

『週刊プロレス』1990年2月6日号より
16文のプロレス観
新日本2・10東京ドーム大会への選手貸し出しについて

 今回のことははっきりいってオレの一存で決めたよ。社員やレスラーの誰にも相談せずに独断でやった。それも電光石火の結論だった。上杉謙信じゃないけど、同じプロレス界に生きている人間として、あそこで坂口(征二)の頼みを蹴ったら、オレは人間性を疑われるよ。そうだろ。

 それにオレは今年初め坂口と会った時、あなたたちの前で「マット界のベルリンの壁はなくなった」といったよな。その公約をはたす日が、予想以上に早くやってきたということだよ。坂口には災い転じて福としてほしいな。頑張ってもらいたいよ。

『週刊プロレス』1990年2月6日号より
リングで出会った男たち
アントニオ猪木

選手としては俺だけじゃなくてみんなも素晴らしいと認めていると思う。お互いに会社を作った後、試合じゃない勝負みたいなものはずいぶんやった。口の勝負だったな。常に俺は負けたね。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
16文のプロレス観
当時、噂に上った天龍源一郎対前田日明戦について

 前田戦をやれって? 俺の目で見ると、もうこの間のジャンボ(鶴田)と天龍の試合(89年6月5日、日本武道館)に尽きると思うよ。これまでにあんな素晴らしい試合はなかった。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
馬場正平として

 歌う方は、それほど嫌いではないんです。巨人軍時代の昭和31年シーズン・オフに、急速に視力が衰え始め、飯田橋の警察病院で検査を受けたところ、医師に、「あんた、アンマさんになりなさい」と言われたんです。脳腫瘍で手術しても完治する確率は1%。

 治療で全盲だけは辛うじて免れるだろうから、マッサージの技術でも身につけておけという宣告でした。結局、東大病院で手術を受けて完治したのですが、東大病院に入院するまでの間、オレは毎日合宿の近くの多摩川の河原に出て、『船頭小唄』ばかり歌っていました。

 おれは河原の 枯れすすき…という歌詞がその時のオレの心境にぴったりで、何度も繰り返して歌っては泣いていたんです。「オレは童貞のまま死んじゃうのかなぁ」と、生きることを半ばあきらめていたんですよ。

『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』より
リングで出会った男たち
ジャンボ鶴田

司会「馬場さんから見て(ジャンボ)鶴田選手はどんな点がすぐれていると思いますか」

馬場「総合力というのかな。スピードも技も力もあるし」

司会「では欠けている部分はありませんか」

馬場「そりゃいくらでもありますよ」

司会「例えば…」

馬場「例えば?(笑)…余裕がありすぎるところとかね」

司会「最近はファンの間で人気が出てきましたけれども、馬場さんは鶴田選手の『オー!』はあまりお好きじゃなかったようですけども(笑)」

馬場「あのね、試合をするのに何もお客さんと話をしなくっていいじゃないの(大爆笑、そして大拍手へ)」

司会「でもお客さんは喜んでいますよね」

馬場「だから喜んでいるんなら、それはそれでいいんじゃないの(笑)、と思うようになったんですがね」

『週刊プロレス』1989年11月28日号より。同年11月、立命大講演会でのやり取り