馬場元子監修

馬場正平として

オレみたいにずぼらなレスラーはいないと思うよ。ある選手のように“こまめ”にスポンサー作りに励むことができないんだよ。社長だったら、本当は自分の方から頭を下げてそういうことをしなければいけないんだけど、性格なんだろうね。

『週刊プロレス』1990年10月30日号より
新日本プロレスからの「口撃」に対して沈黙を守っていた頃を振り返って

 沈黙をしてもね、あの当時だって「なんで馬場さん、あんたも反論しないの?」という人もいっぱいいたし「馬場さん、いいからほっときなさい」という人もやっぱり、半分半分でしたよ。

 言っても半分半分、言わなくたっても半分半分。だから、言えば相手と同じレベルになっちゃうので、言わんほうがいいといったらへんだけど…。

『週刊プロレス』1996年5月14日号より

 歌う方は、それほど嫌いではないんです。巨人軍時代の昭和31年シーズン・オフに、急速に視力が衰え始め、飯田橋の警察病院で検査を受けたところ、医師に、「あんた、アンマさんになりなさい」と言われたんです。脳腫瘍で手術しても完治する確率は1%。

 治療で全盲だけは辛うじて免れるだろうから、マッサージの技術でも身につけておけという宣告でした。結局、東大病院で手術を受けて完治したのですが、東大病院に入院するまでの間、オレは毎日合宿の近くの多摩川の河原に出て、『船頭小唄』ばかり歌っていました。

 おれは河原の 枯れすすき…という歌詞がその時のオレの心境にぴったりで、何度も繰り返して歌っては泣いていたんです。「オレは童貞のまま死んじゃうのかなぁ」と、生きることを半ばあきらめていたんですよ。

『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』より
 煙草をやめようと決意したのは、TVキャスターの逸見政孝さんがガンで入院された時でした。オレは逸見さんとはTV番組で何度か顔を合わせたことがあるぐらいで、個人的なつき合いはあまりなかったんですが、逸見さんがどんどんやせてきたので理由を聞いたところ、「糖尿病ですよ」と言ったんですね。
    糖尿病ならオレが“先輩”ですから、食事はこういう風にした方がいいとか、家にいても階段の上り下りの運動をした方がいいとか、いろいろとアドバイスしました。
    その時にオレは、「こんなに忙しく働かないで、少しは休みなさいよ。金も大事だけど、命はもっと大事ですよ」なんて生意気なことを言ってしまったんです。後になってガンだったと聞いて“ああ、悪いことを言ったなぁ”と後悔しました。
    新聞で、ビートたけしたちが花束を持って入院中の逸見さんを見舞いに行っている写真を見て、深いつき合いのなかったオレにはそういうことも出来ないし“何か、してあげられることはないかな”と考えた末に、「逸見さんが退院されるまで、煙草をやめよう」と決心したんです。
    しかし逸見さんは亡くなられました、「オレの願掛けなんて、届くはずがなかったんだな」とガッカリしたオレは、また葉巻を吸うようになりました。
    1年ぐらいは吸っていたでしょうか。巡業で富山県高岡に行き、そこの会場で、「ああ、オレはこの会場で逸見さんがガンだったと知り、煙草をやめたんだな」と思い出し、突然、「全快を祈って煙草をやめたんだから、今度はご冥福を祈ってやめてやろう」と決意したんです。それからは完全に煙草と縁を切りました。
※『クイズ世界はSHOW by ショーバイ‼』で馬場と共演した逸見政孝さんは、1993年12月25日、48歳の若さで帰らぬ人となった。
『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』より

俺はいまだかつてな、選手にギャラ1日遅れで払ったこともない。給料1日遅れで払ったこともない。たとえ、冬の時代であってもよ。そういう心配をさせたことはないし、今はある時期よりも楽であるということは言える。

『週刊ゴング』1989年1月26日号より

がき大将中のがき大将だったからな。喧嘩が始まると、俺を呼びに来て「こら、やめろ」って言ってそれで終わり。だから俺、喧嘩なんてしたことがない。うちの社員だって一度も殴ったことがない。

『週刊読売』1999年2月21日号より

僕は「自分は体が大きいからこうやって金を稼げたんだ。今さらどうってことないや」と思って、それからどこに行っても胸を張っていることにしました。本当にこの体をして、小さくなったってどうしようもないですもん(笑)。

『一冊の本』1997年11月号より