馬場元子監修

闘いの記憶

1971年3月2日、インタータッグ戦について

 昭和46年は、実にいろいろなことがあった年だ。2月にミル・マスカラス、スパイロス・アリオンが初来日し、3月2日、蔵前国技館でインタータッグ王座に挑戦して来た。マスカラスは、この初来日で人気爆発したが、正直言って私は、この手のタイプが好きではない。

 力道山から教わり、アメリカで覚えたプロレス理念とは、全く別のところにマスカラスはいた。キンキラキンに着飾り、キザなポーズでファイトされたんじゃ、例えは悪いかもしれないが、振り袖を着た女性に喧嘩を売られたようなものだ。こっちの方がてれてしまう。

 国技館での防衛戦でも、マスカラスのドロップキックを手ではたき落とし、蹴っ飛ばしたのが記憶にあるぐらいで、「寛チャン、こいつは頼むよ、俺はアリオンを引き受ける」と猪木に任せてしまった。

 そのマスカラスを、全日本プロレスを旗揚げしてからは常連として呼ぶようになったのは、プロモーターとしての私がその人気を認めざるを得なかったからだ。レスラーとしての私は、やはり対戦するのはご免だった。

『王道十六文』より
1966年2月28日、ルー・テーズ戦について

 2本目は見事にバックドロップを食ってしまった。ヘッドロックからの首投げ連発戦法でストレート勝ちを狙ったのだが「カッコいいとこも見せてやれ」と当時得意技としていた椰子の実割りをかけようとした瞬間、私の体は宙に弧を描いていた。

 私はこの時の写真を、今でも大事に持っている。テーズのバックドロップも完璧だったが、アゴを引き、両手を大きく広げ、足がパッと上がった私の受身の体勢も見事だったと思う。

 やられた瞬間の写真を自慢するのはおかしいかもしれないが、今年(昭和62年)4月にNHKで青春時代の話をさせられた時も、この写真を持って行って自慢して来た。

『王道十六文』より
1963年2月22日対ザ・デストロイヤー戦について

 2月22日、オリンピック・オーデトリアムも超満員だった。1本目を私が取り、2本目は両者リングアウト。試合終了でルールによりデストロイヤーの防衛だとするレフェリーと東郷がモメて延長再試合となり、何かドサクサのうちに私は負けていた。だが別に口惜しくはナカッタ。

 〝謀略の伏魔殿〟と言われていたWWAが、帰国の途中に立ち寄った私に、どんなことをしてでもベルトを渡すはずが無い。ただ大勢のファンがレフェリーを非難し「ババ、良くやった」と言ってくれただけで満足だった。

『王道十六文』より
1982年2月4日、対スタン・ハンセン戦について

 東京体育館大会は、ちょうど1週間前の1月28日に同館で、新日本プロレスが猪木ーブッチャーのシングル初対決を行うという興行戦争だった。何としても負けるわけにはいかない。燃える材料はそろっていた。

 この戦争は、試合内容も観客動員も、全日本プロレスが勝った。私とハンセンのシングル対決は、両者反則で私がPWF王座を防衛し、(昭和)57年度のベストバウトに選ばれた。マスコミは“奇跡の甦り”〝などと書いてくれた。まるで、それまで私が死んでいたみたいだが、これも私の44歳という年齢のためも多分にあったと、認めなくてはなるまい。

 日本プロレスのインター王者時代は、毎日リングに上がるのが楽しく、いつも燃えていた。だが40代に入り、腰を痛めてからは、毎日燃えっ放しというわけにはいかなくなって来た。ビッグマッチにポイントを合わせ、「よし、この試合に向けてーー」と調子を乗せていくようになったのだ。

 ハンセン戦はそれがピタリと合って、最高の気力と体調で燃えられたということだ。試合前から凄い充実感があって、親しい人に、「俺はこの試合で、今年のベストバウトを取ってみせるよ」と大言を吐いたほどだった。

『王道十六文』より

子供の時にね、60歳っていったらね、ずいぶん年寄りだなと思ってましたけどね、自分がなってみたらね、なんだまだやれるじゃないかと。

1998年1月23日、還暦記念試合終了後のコメントより

(最も効いた技は?との質問に)ビックリしたのはボボ・ブラジルの頭突きとかね。(ラッシャー)木村には悪いけど比じゃなかったね。なにしろブラジルが来るっていうんで、髪の毛を伸ばしたことがあったからね。これ、ホントの話なんだよ。

1989年11月5日、早稲田祭にて

 小川(良成)は確かにいい仕事をするけど、やっぱり小さいのがなんだったなあ。小川に大森(隆男)ぐらいの大きさがあって、あの動きがあって技があれば、優勝戦線に残るチームだったと思うけどね(小川は三沢光晴とのコンビで出場したが、3勝3敗1分けで第5位)。例えば(ビッグバン・)ベイダーが立って、小川が立って、そうすると見るまでもない。こういうことをオレが言うと、本人にはかわいそうだけど。

 ベイダーとハンセンの圧倒的な強さは、来年も光るんじゃないかなあと思いますね。(ジョニー・)エースと(バート・)ガンのコンビも輝いていたし、来年はタッグ戦線も面白くなるんじゃないかな。ハンセンがもう3年若かったらな。でも、あの強さはね。楽しみなんだよ。

 ドーム大会? あるかもわからんけど、予定があればオレだって言いますよ。隠しておく必要はないんだから。

1998年12月5日、日本武道館でのシリーズ総括

オレがみんなの負担にならないように頑張らなきゃな。(記者「相手の攻めはきつかったが」)そういう点では満足してますよ。もう年寄りだからって加減というものがあるんだったら、オレも考えなきゃいかんけどね。(98年11月23日の試合後コメント)

1998年11月23日、生涯最後のメインイベントについて

1998年11月23日、生涯最後となったメインイベントを戦い終えたあと、記者の「久しぶりのメインでしたが」との質問に対して、馬場は「生まれて初めて」。控え室は爆笑に包まれた。

1998年11月23日、生涯最後のメインイベントについて
1973年10月9日、インタータッグ戦について

インタータッグ王座挑戦の私のパートナーに、鶴田を抜擢した。これが、旧日本プロレス組には気に食わなかったようだ。〝対等合併だ〟と信じていた彼らは、日本プロレス最後のインタータッグ王者だった大木、上田組の一人が、当然私のパートナーになるべきだとしていた。だが私は、全日本プロレス百年の大計のためにも、ここは譲らなかった。怒った上田と松岡巌鉄は、荷物をまとめて会場を出て行った。上田は渡米して一匹狼となり、松岡はそのまま引退したが、私にはもう、引き留める気はなかった。

『王道十六文』より
1960年9月30日東京・台東体育館でのデビュー戦について

 初マットを踏んだのは入門して5カ月半の昭和35年9月30日、東京・台東体育館大会だった。猪木も同時で、私の相手は桂浜(田中米太郎)、猪木の相手は大木金太郎。やたらと張り切っていた大木は、7分16秒逆腕固めで勝った。

 私には「ボンちゃん(桂浜)なら、勝てる」という自信があった。力道山の付人頭で合宿の寮長だった桂浜は、私たち練習生の監督のような立場にもあって、道場ではいつも威勢良く気合いをかけていたが、私はもう練習マッチで桂浜に負けなくなっていたのだ。

 平手打ちとキックと、後は武者ぶりついて投げ倒すことぐらいしか出来ない。それでも強引に股さきを決めて、5分15秒でギブアップを奪った。レフェリーに右手を高々と上げられるのは、ちょっと照れ臭くはあったが、思っていた以上に気持ちのいいものだった。

『王道十六文』より
1964年7月23日、故郷・三条での凱旋試合(アジアタッグ戦)について

 挑戦者はジョニー・バレント、覆面ザ・スポイラー組。相手にとっては不足だったが、とにかくここは、私が毎日野球をやっていたグランドだ。びっしりと校庭を埋めてくれたお客さんは、みんな故郷の人たち。真夏だから白シャツ姿だが、母校の制帽をかぶった後輩も大勢いた。
 もちろん我が家の家族や親類縁者も総出。私は2年中退だから卒業生名簿には載っていないだろうが、「俺は、帰って来たぞ!」と思い切りわめきたいくらいだった。チャンピオン・ベルトを締めてリングに上がり、拍手の嵐を浴びた時は、胸がキューンとして、危うく涙をこぼすところだった。
 もう興奮して暴れまくって、2ー0のストレート勝ち。初防衛に成功したと言うよりは、「これで少しは親孝行になったかな」といった気持ちだった。

『王道十六文』より