馬場元子監修

オフ・ザ・リング

三条市では、正月の一、二、三が日だけ、朝、もちにあんこをかけて食べるのが習わしなんですよ。水もちといって、固くなったもちを水からゆでるわけです。そうするとつきたてのもちみたいになるんですよ。それを丼に入れて、あんこをかけるわけです。

『久米宏対話集 最後の晩餐』より

 私がプロレス入りしたことをスポーツ紙で知った母のミツは、あわてて上京して来た。案の定、猛反対だった。「力道山さんから契約金をもらったのなら、何としてでも私が返すから、プロレスだけはやめてくれ。どうしてもやるというなら勘当する」とまで母は言った。

 同じプロスポーツでも、プロ野球に入った時とは大変な違いだ。(中略)一晩かかって母を説得したが、母は最後まで、「それならやりなさい」とは言わなかった。母は、泣き落としにもおどしにも決心を変えない私に呆れ、あきらめて翌日三条に帰っていった。

 その小さな後ろ姿に、「申し訳ない」とは思ったが、母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになったことも事実だった。「この世界で男になれなけりゃ、もう死んでも郷里に帰れない」。そんな気持ちだった。

『王道十六文』より

オレの水泳は自己流で、大会に出場したこともありませんが、自分では達者な方だと思っています。オレの生まれ育った三条の街は、真ん中を五十嵐川が流れていました。(中略)その川原がオレたちの遊び場だったんです。今は五十嵐川もチョロチョロ流れているだけですが、当時は川幅が15メートルほど、水深は3メートル以上あって、水も澄んでいました。泳ぎも飛び込みも魚釣りも出来たんです。(中略)水着は6尺ふんどしです。これで泳ぎ、相撲も取り、戦後は3角ベースもやっていました。

『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』より

 (1982年)7月7日にキャピトル東急ホテルで、私と元子の結婚を発表したが、もう何ともてれ臭く、寒いほど冷房をきかした部屋で汗びっしょりになってしまった。私たちがハワイで2人だけの結婚式を挙げてから11年弱。入籍もようやくすませ、それでも、「今さら公表することもないだろう」と思っていたのだが、某週刊誌が入籍を機にスッパ抜くということがわかり、あわてて正式発表の形をとったのだ。マット関係者はもちろん、プロレス・マスコミも元子のことは知っていた。それでも書かずにいてくれたものを、一般週刊誌にスッパ抜かれたのでは申し訳ないという気持ちからだった。
 そのため記者会見も小部屋を用意したが、テレビの芸能リポーターまで押しかけ、しかも元子は私以上にてれてしまって欠席を決めこんだから、私はもう孤軍奮闘悪戦苦闘もいいところ。何試合もぶっ通しでやったほど疲れてしまった。

『王道十六文』より