馬場元子監修

リングで出会った男たち

アンドレ・ザ・ジャイアント

(1990年)4月13日には東京ドームで、全日本、新日本、WWF3団体共催の『日米レスリング・サミット』を開催した。WWFは前年から日本進出を計画しており、両団体に協力を要請して来たのだが、私は坂口と協議の結果、興行の主導権は全日本プロレスが握ることにした。WWFが単独で侵攻するのは無理だということを思い知らせてやりたかったからだ。

 WWFビンス・マクマホン・ジュニア代表がリング上で挨拶した時、客席からブーイングが起こり、彼も日本のファンにあまり歓迎されていないことはわかったようだった。

 アンドレとは、日本で同じリングに上がるのは初めてで、私より身長の高いレスラーと組むのも初めてだったが、気持よく戦え、アンドレも、そしてファンも喜んでくれた。聞けば、アンドレとWWFの契約は切れているという。

 私が、「それなら全日本プロレスに来ないか」と誘うと、アンドレは、「ババと組むのは楽しい。いま決まっているスケジュールを消化したら、ぜひ呼んでくれ」と快諾してくれた。

『王道十六文』より
輪島大士ep.02

(1986年)4月7日、輪島大士と会った。トラブルのため花籠親方の名跡も返上し、“浪人”していた輪島は、プロレスに転向して一から出直したいという。

 「お願いします」という言葉に〝これをやるしかない〟という切羽つまったものを感じた私は、「借金のことは、全日本プロレスは責任は持たない。レスラーになっても、それだけの大金は稼げない。それを承知の上で、新弟子になったつもりでやるなら引き受けよう」と条件を出したが、輪島はそれでもやるという。とにかく本人のやる気が肝心だ。

 私の輪島育てが始まった。この年の4月以降は、それに終始して1年が終わってしまったような感じだった。いろいろと世間を騒がせ、怠け者とも言われていた男だが、引き受けた以上は、〝駄目でした〟ではすまされない。

 マスコミにも批判や悲観論がかなりあったが、「責任を持って、俺が一人前にして見せる」と、私も必死だった。

『王道十六文』より
力道山

 力道山道場は、正式には中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターだが、私たちは“人形町の道場”と呼んでいた。力道山がブラジルから帰国した翌日の昭和35年4月11日、私は再び道場を訪れた。

    力道山は桂浜(田中米太郎)から私のことを、聞いていたらしく、ニヤッと笑って、「おい、足の運動を50回やってみろ」。何の仕度もしていなかった私は、照れ臭い思いをしながらパンツ1枚になり、見よう見まねでヒンズースクワットをやった。

「フーン、やるじゃねぇか。もう50回だ」

    私は巨人軍時代、ピッチングとランニングしかやっていなかったから、脚力には自信があった。

「よし、お前、明日から来いよ」。それで決まりだった。だが私にも生活がある。

「いくらくれますか?」

「なにい?   お前、ジャイアンツでいくらもらってたんだ?」

「月給5万円です」

「よし、じゃ5万円出してやる」

    こうして私のプロレス入りは決まった。5万円は最初の月だけで、翌月からは「試合にも出ていねぇのに5万円は高すぎる。3万円だ」と値切られてしまったが、当時日本プロレスの若手で月給をもらい、練習に〝通勤〟を許されたのは私だけだった。

    そんなことから私は「エリート待遇を受けた」と言われるのだが、プロレスラーにはエリートもヘチマも無いと私は思っている。練習に差別は無かった。
『王道十六文』より
フレッド・アトキンスep.02

 アトキンスは“酒と女は厳禁”というようなヤボは言わなかったが、“ウイスキーは良くない”とか“あれを食ったら体に悪い”とかよく注意された。もしそれを守らなかったら黙ってポイと放り出されていただろう。肉体を作ることには極めてストイックな人だったのだ。

 タイガー・ジェット・シンも彼の指導を受けたという。シンの投げ技への入り方は私と同じだ。凶暴シンも基本はアトキンス仕込みだなとわかる。シンだからアトキンスについて行けたのだろう。

『個性豊かなリングガイたち』より
フレッド・アトキンスep.01

 練習の主眼は下半身と腹筋を鍛え、ロープを使って引く力を強くすることに置かれていた。毎日アトキンスと綱引きをやっていたのだ。そのお蔭で今も腹は出ていない。ルー・テーズやパット・オコーナーもそうだが、全身で“引く”ことを基本にしているレスラーは腹もへこむし、選手寿命も長いようだ。ブルーノ・サンマルチノやボディビル出身のレスラーのように“押す”力の強い選手は、どうしても腹が出る傾向にあると思う。

 アトキンスはプロレスのテクニックに関し基本以外は何も教えてくれなかった。何時間でも動ける体を作ることに専念した。それが良かったのだと思う。私が今日あるのはアトキンスのお蔭だ。

『個性豊かなリングガイたち』より
アントニオ猪木ep.03

 (参院選に立候補したアントニオ猪木について「当選を望むか?」との問いに)そりゃそうだよ。マット界に生きている人間なら、みんなそう思ってるだろうな。当選してもらった方が、すべて丸く収まってくれるので、そうなってほしい所だな。

『週刊プロレス』1989年7月11日号より
マシオ駒

 この日(1976年3月10日)、マシオ駒が死亡した。日本プロレス時代に私の付人第1号となり、全日本プロレスの設立にも真っ先に参加してくれた駒は、体は小粒だったが、気っぷのいいファイトをする選手だった。性格は真面目で几帳面で、私は若手の指導者として絶対の信頼を置いていただけに、まだ35歳の若さで内蔵疾患に倒れたことは痛ましく、残念だった。駒がドリー・ファンク・シニアに目をかけられてアマリロに定着していたことが、ファンク一家との交流のきっかけともなった。旗揚げ当初の駒の有形・無形の功績ははかり知れないものがあったと、今でも感謝している。

『王道十六文』より
バディ・ロジャース

 私がバディ・ロジャースの試合を初めて見たのは、グレート東郷さんに連れられてロサンゼルスからニューヨーク地区に転戦した時だ。ピッツバーグでのクラッシャー・リソワスキーとの対戦だったが、ディック・ザ・ブルーザーと極道コンビで暴れていた大悪党のクラッシャーがロジャースと対戦するとベビーフェースになってしまうのだから、すごいショックを受けた。

 後年デストロイヤーが真似したレスラー・ウォーク、あれは当時“ロジャーズ・ウォーク”と呼ばれて彼のトレードマークになっていた。彼がリングでこれをやるたびにファンはドッとわく。そのツラ憎さに声の限りの罵声を浴びせるのだ。それを平然と受け流すロジャースにはトップスターの自信とムードがあふれ、私はうなりっ放しだった。

 私がロジャースとシングルで初めて対決したのはシカゴの大会場アンフィ・シアターだった。私のNWA世界選手権への初挑戦。アガるというのはああいうことなのだろうか。野球選手時代にもプロレスラーになってからもアガったという記憶のあまりない私だが、この時はただボーッとして何をしたのかどんな試合展開だったのか、終わってからもさっぱりわからなかった。

 当時の私は東郷さんとフレッド・アトキンスの命令で口ひげを生やし、田吾作タイツに下駄をはいて大悪党をもって任じていたのだが、その私がピッツバーグで見たクラッシャーのようにベビーフェースにさせられたことだけははっきり覚えている。私がどんなに悪どいことをやっても、ロジャースはそれを上回る悪どさで私を痛めつけて来たのだ。彼は私などとはケタの違う大ヒールだった。

『個性豊かなリングガイたち』より
ハーリー・レイス

ハーリー・レイスには、任侠の世界に生きる親分といったムードがある。「新日本プロレスからも誘われたが、俺は馬場の顔をつぶすようなことはしねえ。俺は義理と人情では動くが、金じゃ動かねえぜ」と浪花節的なことを言ってくれたものだ。

『個性豊かなリングガイたち』より
アントニオ猪木ep.02

 BIコンビ時代はこれ(昭和43年2月)から46年12月まで、3年10カ月にわたって続くことになる。パートナーの猪木はその間、常に私に張り合って来たが、「やりにくい相棒だな」と思ったことは一度もなかった。コンビを組んで張り合って来たのは、猪木だけではない。

 大木金太郎もかなり強烈だった。だが私は誰と組んでも、やりにくいとは思わなかった。自慢話めくが、当時の私にはそれだけの力があった。相棒がセリ込んで来れば、その上をやった。猪木が10出せば、「よし、俺は12だ!」とやった。

 30歳になったばかりで、プロレスが面白くて、毎日の試合が楽しくてたまらなかったころだ。こういう張り合いも嫌いじゃなかったし、自信があった。パートナー同士が競い合ったから、なおさら、「BIコンビは強い」という印象をファンに与えたのだろう。

『王道十六文』より
ブルーザー・ブロディep.02

 金沢の卯辰山相撲場でのことだ。あの会場はすり鉢状で、急勾配な階段状の客席がリングを組む土俵の位置から、ビルの3~4階の高さまで続いている。その客席の中段あたりから、中学生ぐらいの子供が何か野次りながらブロディに物を投げつけた。怒ったブロディはリングから飛び降り、危険を感じたその子供は客席最上段に向けて必死に逃げ出した。
 私はリング上で「あれだけ離れていちゃ、つかまりっこない。おどしをかけただけだろう」と見ていたのだが、ブロディは急階段を一気に駆け登り、その子供をつかまえてしまった。
 100mを11秒台で走る男でなければとうてい出来ない芸当だった。ブロディはつかまえた子供を別に殴りもせず、両肩をおさえてじっとにらみつけただけだったが、あの子はその夜、うなされて熱を出したかもしれない。

『個性豊かなリングガイたち』より
リップ・ロジャース

 会場でアンケートを取ると、もう一度呼んでもらいたいレスラーとしてロジャースの希望が多いんだよね。どこがいいのか、オレにはよくわからないんだけど(笑)。
 これまで自分が評価しないレスラーは呼ばなかった。それがオレの悪いクセだったと思う。今後はみんなの意見を参考にして、そのうちまた呼んでみたいな。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー

 現在(昭和62年)ブルーザーはインディアナポリスの、クラッシャーはミルウォーキーのプロモーターをしながら、まだ現役としても頑張っている。(昭和)60年に鶴田、天龍とともにシカゴに遠征した時には、ブルーザーも来ていて、「おう、キッド! 元気か?」と声をかけて来た。

 クラッシャーのほうはちょっと気難し屋で会っても「やあ」だけだが、陽気でつき合いやすい感じのブルーザーはいつも「おう、キッド!」だ。今でも私を子供扱いしているのだが、私は英語がそれほど達者でないから反論するわけにはいかないし、キッドと呼ばれてもちょっと反発できないムードがあるので、言われっ放しになっている。私がキッドなら鶴田や天龍、あるいはターザン後藤や川田利明はいったい何なのだろう。

『個性豊かなリングガイたち』より
アントニオ猪木

選手としては俺だけじゃなくてみんなも素晴らしいと認めていると思う。お互いに会社を作った後、試合じゃない勝負みたいなものはずいぶんやった。口の勝負だったな。常に俺は負けたね。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
ジャンボ鶴田

司会「馬場さんから見て(ジャンボ)鶴田選手はどんな点がすぐれていると思いますか」

馬場「総合力というのかな。スピードも技も力もあるし」

司会「では欠けている部分はありませんか」

馬場「そりゃいくらでもありますよ」

司会「例えば…」

馬場「例えば?(笑)…余裕がありすぎるところとかね」

司会「最近はファンの間で人気が出てきましたけれども、馬場さんは鶴田選手の『オー!』はあまりお好きじゃなかったようですけども(笑)」

馬場「あのね、試合をするのに何もお客さんと話をしなくっていいじゃないの(大爆笑、そして大拍手へ)」

司会「でもお客さんは喜んでいますよね」

馬場「だから喜んでいるんなら、それはそれでいいんじゃないの(笑)、と思うようになったんですがね」

『週刊プロレス』1989年11月28日号より。同年11月、立命大講演会でのやり取り
輪島大士ep.01

 輪島の場合は俺が解雇されちゃったな(苦笑)。もっと一生懸命やれば、うまくなれたのに、とは感じているんだけどねぇ。まあね、何ちゅうかな、練習が相撲と違って受身を覚えなきゃいけないだろ。それで受身がうまくならないうちにデビューしちゃったから、キツかったんだろうと思うんだよ。受身を取ることがね。

 やれるだけのことはやってやったと思う。あと、男になりかけたとこまできたんだけどね、手を離したら駄目になっちゃったというか。手を離すのが早過ぎたかなという反省はしている。

『週刊ゴング』1989年1月26日号より
ザ・デストロイヤー

日本組の助っ人として彼に白羽の矢を立てたのは、ネーム・バリューと実力はもちろんだが、彼の日常生活を見ていて、これなら日本になじんでくれるだろうと思ったこと、ミスター・モトと親友の間柄で日本に好意を持っていたからだった。これは成功だった。見た目の戦力アップだけでなく若手のレベルアップにも努めてくれた。彼が言うことはレスラーとして筋が通っているし、力道山先生と名勝負を演じた魔王ということで、彼の下につくことに不満を持つ日本人選手は一人もいなかった。

『個性豊かなリングガイたち』より
スタン・ハンセン
ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組の最強タッグ決定リーグ戦初優勝を手助けしたハンセンが、その直後にブーツのままリングに乱入した時、私も飛び込んで彼と渡り合った。「こいつは、燃えられる男だ」というのが、その時の私の実感だった。夜型人間の私は、深夜に地下の“秘密”練習場で体調を整えたのだった。
『王道十六文』より
ブルーノ・サンマルチノ

 僕は、外国人レスラーには友情とか義理とか人情というものはそんなにないんじゃないか、と思ってたんですよ。それが、あのサンマルチノという人に関してだけは違います。ずっとずーっと、僕に義理を貫き通してくれたんですからね。
 サンマルチノにも、もちろん、他の団体から、こっちでやらないか、と声がかかりますよ、すると、彼は「馬場がいいと言ったらいいよ」と、そういう言い方をしてましたですね。そういう点では、ありがたいことですよねえ。

sammartino_baba

『16文の熱闘人生』より
アブドーラ・ザ・ブッチャー

4団体になった時、ブッチャーが全日プロを選んだのは「馬場とならリズムが合う」と思ったところもあったのではないか。全日プロを設立した時、私も呼びたいレスラーのリストにブッチャーを入れていた。旗揚げ前の昭和47年9月、サンマルチノがいたピッツバーグに飛んだ時、その会場の控室で黒いスーツに黒いシャツ、白いネクタイに山高帽というスタイルのブッチャーとバッタリ出会い「全日プロに来てくれるな」と声をかけた。彼の返事は「OKだ。日本でステーキをおごってくれたのはユーだけだからな」だった。私にはその記憶がない。何となくうしろめたい思いにかられ、その夜ブッチャーをステーキ・ハウスに誘った。ブッチャーは二枚をペロリと平らげた。

『個性豊かなリングガイたち』より
ブルーザー・ブロディep.01

ブロディがプエルトリコで刺殺されたのは大きなショックだった。ブロディは並外れてプライドが高く自己主張の強烈な男で、各地のプロモーターとの間にトラブルが絶えなかったようだが、私は彼の扱い方を心得ていたつもりで、全日本の貴重な戦力になっていてくれた。

『王道十六文』より