馬場元子監修

リングで出会った男たち

アントニオ猪木ep.03

 (参院選に立候補したアントニオ猪木について「当選を望むか?」との問いに)そりゃそうだよ。マット界に生きている人間なら、みんなそう思ってるだろうな。当選してもらった方が、すべて丸く収まってくれるので、そうなってほしい所だな。

『週刊プロレス』1989年7月11日号より
マシオ駒

 この日(1976年3月10日)、マシオ駒が死亡した。日本プロレス時代に私の付人第1号となり、全日本プロレスの設立にも真っ先に参加してくれた駒は、体は小粒だったが、気っぷのいいファイトをする選手だった。性格は真面目で几帳面で、私は若手の指導者として絶対の信頼を置いていただけに、まだ35歳の若さで内蔵疾患に倒れたことは痛ましく、残念だった。駒がドリー・ファンク・シニアに目をかけられてアマリロに定着していたことが、ファンク一家との交流のきっかけともなった。旗揚げ当初の駒の有形・無形の功績ははかり知れないものがあったと、今でも感謝している。

『王道十六文』より
バディ・ロジャース

 私がバディ・ロジャースの試合を初めて見たのは、グレート東郷さんに連れられてロサンゼルスからニューヨーク地区に転戦した時だ。ピッツバーグでのクラッシャー・リソワスキーとの対戦だったが、ディック・ザ・ブルーザーと極道コンビで暴れていた大悪党のクラッシャーがロジャースと対戦するとベビーフェースになってしまうのだから、すごいショックを受けた。

 後年デストロイヤーが真似したレスラー・ウォーク、あれは当時“ロジャーズ・ウォーク”と呼ばれて彼のトレードマークになっていた。彼がリングでこれをやるたびにファンはドッとわく。そのツラ憎さに声の限りの罵声を浴びせるのだ。それを平然と受け流すロジャースにはトップスターの自信とムードがあふれ、私はうなりっ放しだった。

 私がロジャースとシングルで初めて対決したのはシカゴの大会場アンフィ・シアターだった。私のNWA世界選手権への初挑戦。アガるというのはああいうことなのだろうか。野球選手時代にもプロレスラーになってからもアガったという記憶のあまりない私だが、この時はただボーッとして何をしたのかどんな試合展開だったのか、終わってからもさっぱりわからなかった。

 当時の私は東郷さんとフレッド・アトキンスの命令で口ひげを生やし、田吾作タイツに下駄をはいて大悪党をもって任じていたのだが、その私がピッツバーグで見たクラッシャーのようにベビーフェースにさせられたことだけははっきり覚えている。私がどんなに悪どいことをやっても、ロジャースはそれを上回る悪どさで私を痛めつけて来たのだ。彼は私などとはケタの違う大ヒールだった。

『個性豊かなリングガイたち』より
ハーリー・レイス

ハーリー・レイスには、任侠の世界に生きる親分といったムードがある。「新日本プロレスからも誘われたが、俺は馬場の顔をつぶすようなことはしねえ。俺は義理と人情では動くが、金じゃ動かねえぜ」と浪花節的なことを言ってくれたものだ。

『個性豊かなリングガイたち』より
アントニオ猪木ep.02

 BIコンビ時代はこれ(昭和43年2月)から46年12月まで、3年10カ月にわたって続くことになる。パートナーの猪木はその間、常に私に張り合って来たが、「やりにくい相棒だな」と思ったことは一度もなかった。コンビを組んで張り合って来たのは、猪木だけではない。

 大木金太郎もかなり強烈だった。だが私は誰と組んでも、やりにくいとは思わなかった。自慢話めくが、当時の私にはそれだけの力があった。相棒がセリ込んで来れば、その上をやった。猪木が10出せば、「よし、俺は12だ!」とやった。

 30歳になったばかりで、プロレスが面白くて、毎日の試合が楽しくてたまらなかったころだ。こういう張り合いも嫌いじゃなかったし、自信があった。パートナー同士が競い合ったから、なおさら、「BIコンビは強い」という印象をファンに与えたのだろう。

『王道十六文』より
ブルーザー・ブロディep.02

 金沢の卯辰山相撲場でのことだ。あの会場はすり鉢状で、急勾配な階段状の客席がリングを組む土俵の位置から、ビルの3~4階の高さまで続いている。その客席の中段あたりから、中学生ぐらいの子供が何か野次りながらブロディに物を投げつけた。怒ったブロディはリングから飛び降り、危険を感じたその子供は客席最上段に向けて必死に逃げ出した。
 私はリング上で「あれだけ離れていちゃ、つかまりっこない。おどしをかけただけだろう」と見ていたのだが、ブロディは急階段を一気に駆け登り、その子供をつかまえてしまった。
 100mを11秒台で走る男でなければとうてい出来ない芸当だった。ブロディはつかまえた子供を別に殴りもせず、両肩をおさえてじっとにらみつけただけだったが、あの子はその夜、うなされて熱を出したかもしれない。

『個性豊かなリングガイたち』より
リップ・ロジャース

 会場でアンケートを取ると、もう一度呼んでもらいたいレスラーとしてロジャースの希望が多いんだよね。どこがいいのか、オレにはよくわからないんだけど(笑)。
 これまで自分が評価しないレスラーは呼ばなかった。それがオレの悪いクセだったと思う。今後はみんなの意見を参考にして、そのうちまた呼んでみたいな。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー

 現在(昭和62年)ブルーザーはインディアナポリスの、クラッシャーはミルウォーキーのプロモーターをしながら、まだ現役としても頑張っている。(昭和)60年に鶴田、天龍とともにシカゴに遠征した時には、ブルーザーも来ていて、「おう、キッド! 元気か?」と声をかけて来た。

 クラッシャーのほうはちょっと気難し屋で会っても「やあ」だけだが、陽気でつき合いやすい感じのブルーザーはいつも「おう、キッド!」だ。今でも私を子供扱いしているのだが、私は英語がそれほど達者でないから反論するわけにはいかないし、キッドと呼ばれてもちょっと反発できないムードがあるので、言われっ放しになっている。私がキッドなら鶴田や天龍、あるいはターザン後藤や川田利明はいったい何なのだろう。

『個性豊かなリングガイたち』より
アントニオ猪木

選手としては俺だけじゃなくてみんなも素晴らしいと認めていると思う。お互いに会社を作った後、試合じゃない勝負みたいなものはずいぶんやった。口の勝負だったな。常に俺は負けたね。

1989年7月10日、札幌でのトークイベントにて
ジャンボ鶴田

司会「馬場さんから見て(ジャンボ)鶴田選手はどんな点がすぐれていると思いますか」

馬場「総合力というのかな。スピードも技も力もあるし」

司会「では欠けている部分はありませんか」

馬場「そりゃいくらでもありますよ」

司会「例えば…」

馬場「例えば?(笑)…余裕がありすぎるところとかね」

司会「最近はファンの間で人気が出てきましたけれども、馬場さんは鶴田選手の『オー!』はあまりお好きじゃなかったようですけども(笑)」

馬場「あのね、試合をするのに何もお客さんと話をしなくっていいじゃないの(大爆笑、そして大拍手へ)」

司会「でもお客さんは喜んでいますよね」

馬場「だから喜んでいるんなら、それはそれでいいんじゃないの(笑)、と思うようになったんですがね」

『週刊プロレス』1989年11月28日号より。同年11月、立命大講演会でのやり取り
輪島大士

 輪島の場合は俺が解雇されちゃったな(苦笑)。もっと一生懸命やれば、うまくなれたのに、とは感じているんだけどねぇ。まあね、何ちゅうかな、練習が相撲と違って受身を覚えなきゃいけないだろ。それで受身がうまくならないうちにデビューしちゃったから、キツかったんだろうと思うんだよ。受身を取ることがね。

 やれるだけのことはやってやったと思う。あと、男になりかけたとこまできたんだけどね、手を離したら駄目になっちゃったというか。手を離すのが早過ぎたかなという反省はしている。

『週刊ゴング』1989年1月26日号より
ザ・デストロイヤー

日本組の助っ人として彼に白羽の矢を立てたのは、ネーム・バリューと実力はもちろんだが、彼の日常生活を見ていて、これなら日本になじんでくれるだろうと思ったこと、ミスター・モトと親友の間柄で日本に好意を持っていたからだった。これは成功だった。見た目の戦力アップだけでなく若手のレベルアップにも努めてくれた。彼が言うことはレスラーとして筋が通っているし、力道山先生と名勝負を演じた魔王ということで、彼の下につくことに不満を持つ日本人選手は一人もいなかった。

『個性豊かなリングガイたち』より
スタン・ハンセン
ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組の最強タッグ決定リーグ戦初優勝を手助けしたハンセンが、その直後にブーツのままリングに乱入した時、私も飛び込んで彼と渡り合った。「こいつは、燃えられる男だ」というのが、その時の私の実感だった。夜型人間の私は、深夜に地下の“秘密”練習場で体調を整えたのだった。
『王道十六文』より
ブルーノ・サンマルチノ

 僕は、外国人レスラーには友情とか義理とか人情というものはそんなにないんじゃないか、と思ってたんですよ。それが、あのサンマルチノという人に関してだけは違います。ずっとずーっと、僕に義理を貫き通してくれたんですからね。
 サンマルチノにも、もちろん、他の団体から、こっちでやらないか、と声がかかりますよ、すると、彼は「馬場がいいと言ったらいいよ」と、そういう言い方をしてましたですね。そういう点では、ありがたいことですよねえ。

sammartino_baba

『16文の熱闘人生』より
アブドーラ・ザ・ブッチャー

4団体になった時、ブッチャーが全日プロを選んだのは「馬場とならリズムが合う」と思ったところもあったのではないか。全日プロを設立した時、私も呼びたいレスラーのリストにブッチャーを入れていた。旗揚げ前の昭和47年9月、サンマルチノがいたピッツバーグに飛んだ時、その会場の控室で黒いスーツに黒いシャツ、白いネクタイに山高帽というスタイルのブッチャーとバッタリ出会い「全日プロに来てくれるな」と声をかけた。彼の返事は「OKだ。日本でステーキをおごってくれたのはユーだけだからな」だった。私にはその記憶がない。何となくうしろめたい思いにかられ、その夜ブッチャーをステーキ・ハウスに誘った。ブッチャーは二枚をペロリと平らげた。

『個性豊かなリングガイたち』より
ブルーザー・ブロディep.01

ブロディがプエルトリコで刺殺されたのは大きなショックだった。ブロディは並外れてプライドが高く自己主張の強烈な男で、各地のプロモーターとの間にトラブルが絶えなかったようだが、私は彼の扱い方を心得ていたつもりで、全日本の貴重な戦力になっていてくれた。

『王道十六文』より