馬場元子監修

リングで出会った男たち
力道山

 力道山道場は、正式には中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターだが、私たちは“人形町の道場”と呼んでいた。力道山がブラジルから帰国した翌日の昭和35年4月11日、私は再び道場を訪れた。

    力道山は桂浜(田中米太郎)から私のことを、聞いていたらしく、ニヤッと笑って、「おい、足の運動を50回やってみろ」。何の仕度もしていなかった私は、照れ臭い思いをしながらパンツ1枚になり、見よう見まねでヒンズースクワットをやった。

「フーン、やるじゃねぇか。もう50回だ」

    私は巨人軍時代、ピッチングとランニングしかやっていなかったから、脚力には自信があった。

「よし、お前、明日から来いよ」。それで決まりだった。だが私にも生活がある。

「いくらくれますか?」

「なにい?   お前、ジャイアンツでいくらもらってたんだ?」

「月給5万円です」

「よし、じゃ5万円出してやる」

    こうして私のプロレス入りは決まった。5万円は最初の月だけで、翌月からは「試合にも出ていねぇのに5万円は高すぎる。3万円だ」と値切られてしまったが、当時日本プロレスの若手で月給をもらい、練習に〝通勤〟を許されたのは私だけだった。

    そんなことから私は「エリート待遇を受けた」と言われるのだが、プロレスラーにはエリートもヘチマも無いと私は思っている。練習に差別は無かった。
『王道十六文』より